ケニア追記

先のブログを書いたあと、以下のサイトを読んで、私の心配がいかに表面的であったかを知ったので、追記しておきます。mixiに登録しているヒトしか読めないけど、さらに一部、下に転載させていただきます。


(以下、転載文)

こちらの状況ですが、すごくタイトな厳重警戒態勢、街中、国中に重装備の警官、軍隊?が出ています。今日は自宅からも何度も連続した発砲が聞こえ、これはODM*1集会を行おうとしていたウフルパークに向かって移動したがっている群衆を取り押さえるために警官が発砲していたもようです。ちょっと騒ぎがあがるとすぐに催涙ガスも投げられ、あたりにそのにおいもただよっています。ナイロビのシティセンターは早々に封鎖されてすごい厳戒態勢、ウフルパークにもひとりも人を入れるもんかというすごい数の武装ガードがとりかこんでいます。ケニア国内の主要幹線道路ももちろん、そして地方都市でも、警備に国中の警察が総動員か。という様相です。


こんな状態においても、驚くべきことには、観光客はケニアに来ており、今日も観光客の発着もあり、そしてサファリ観光に出て行くサファリカーもある。十分な報道がされていず、状況を把握しきれていない海外からの観光客が、乗り継ぎのドゥバイの空港でニュースを見てびっくり、ということもあるようですが、これだけ厳戒態勢の中も、サファリカーは移動をすることができ、(もちろん自己責任においてではあるが)、空港からナイロビ市内のホテルへ、そしてナイロビ市内のホテルから国立公園などへサファリへ、という移動が、まるで何事もなかったかのように行われていることを、いったいどう捉えたらいいのか複雑な気持ちでいます。もちろん、ケニアにとっての重要な収入源である観光産業が、こういう状況に打撃を受けられても困るわけであるけど、それでも、あまりにも国の実情とはかけ離れたところにある観光業のあり方や、おそらく多くの外国人にとってはこの国の本当の根底にあるものがまったく見えない、見えずらいという現実をまざまざと知らされます。


おそらくこれは、海外ーケニアという関係性においてだけではなく、ケニア国内でも、どのような生活層に属しているかということで見えてくることはまったく違う。それによって、現状への危機感や、危険度、命の重さまでまったく違うものになってしまうという現実が、あまりにも虚しく苦しい。ケニア国民全体からしたら、ほんの一握りでしかない裕福層が、実質、この国を動かしている中心だというのが現実なのかもしれない。そんな裕福層の人々は、(結局は自分自身もそれに属するわけなのであるけど)、早くから危機対策をすることもでき、この選挙に向けては誰もがしばらくの間は篭城できるだけの食料、水、などを蓄えておくことが常識とされ、実際、それをするだけの金銭的余裕もある。そして、危険が訪れると、ガッチリしたゲートの中にこもってしまってしばらくおこもりになりさえすれば、その身が危険にさらされることはよっぽどのことがない限り避けられる。


だけど私たちのスラムの友人たちはどうだろう。食料やら生活必需品を蓄えて備えるような経済的余裕もなく、そもそもが、今日働かなければ今日食べるものがないというようなギリギリの暮らし、そんなささやかな生活さえも、こういう状況下でもっとも脅かされるのは彼らのような弱者だ。そして、その命は、まるで虫けらのように軽く扱われる。スラムの中でいったい何が起こっていても、まるでそんなことはこの国にとっては関係のないこととでも?


怒りにあばれている暴徒たちの多くは、青年たちだ。青年たちだけではなくてその中には中年層の人々も入っているだろうけれども、でも多くは若者層だと思う。その多くは裕福層の若者たちではなく、いわゆる貧困層の、スラムや村の、働きたくてもまともな仕事もなく、将来に夢を持ちたくても夢や希望を持つことも困難な、鬱屈した生活層がほとんどだろう。裕福層であれば、もっと器用に人生を生き、もっと手際よく自分の身を守っているだろう。彼らが、手に手に、木の枝や棒や石を持ち、パンガ(手斧)を持ち、暴れて、車や建物に火を放って、そして発砲されてバコバコに打ち据えられて・・ という様子を見ていると、涙が出て止まらなくなる。彼らは変化に期待をしたし、希望を持ったし、よくなるはずだと信じたし、何度も裏切られているのにまた信じたのに、また裏切られ、そしてどうせ守るものも失うものもないからこうして怒り暴れる。


これまでの総選挙で、ケニア国民の選挙への参加率はものすごく高い。国民はまだ政治に期待をかけ、投票で政治に参加できることを誇りに思い、若者から老人まで国民すべてが政治に関心を持ち、遠く離れた投票所まで何時間もかけて出かけていく人々、文字も書けない人々、多くの人々が投票所に出かけていき、あまりの手際の悪さにも辛抱強く長蛇の列で待ち続け、そして、誇りを持って一票を投じたのだ。誰もが、民主主義を信じていたし、この一票によって世の中は変わると信じていたし、今は苦しい自分たちの生活にも未来への希望があると信じたし、そういう国民の期待に政治が応えてくれるはずと信じた。そうやって一票を投じてから、みんな、辛抱強く、平和に結果を待っていたのだ。こんな国民たちを大きく裏切って平気な政治家たちなど、いったいなんのための、誰のための政治なんだ?


不正を正して欲しいという申し出も無視した形で、強行に、一方的な発表そして間髪をいれずに就任式、そして当然沸き起こる抗議の動きに対しては絶対的な武力行使で強制的に鎮圧、というのは、いったい全体本当に、民主主義国家の行うことといえるのか? まったく正気の沙汰とは思えない、ニヤニヤと笑顔すら浮かべながら就任式にのぞむキバキ大統領の姿を見ながら、この人は本当に正気なのだろうか?と心底思った。そのあとどういう状況になるか、どれだけ多くの命が失われるかということは、火を見るよりも明らかだったはずだ。


怒りが爆発してあばれる人々に対して、厳重武装した警官たちはどんなしうちをしたかというと、まるで武器も持たず、持っているのは木の枝と石くらいの人々を何度も何度も打ちすえ、けとばし、何度も発砲して、・・・ 誰もがみんな、心ってものがあるんだよ!人間なんだよ!と叫びたくなる。


(転載文2)

生放送を禁止、と、政府から発令があったとたんに、これまで12月27日以来ずっと選挙速報を流し続けていたケニアのテレビ局がすべて、ニュースをやめて、どうでもいいような番組を流しはじめた。不気味だ。家の中に立てこもってテレビだけが情報源だとすると、これだけ見ているとまるで何事もなかったかのように錯覚してしまいそうだ。しかし実際には、あっちの町、こっちの町で火の手があがって、人が殺されているというのに。


ああー不気味だ。と思っていたところに、NTVの画面が、ニュースに戻った。(ナマではなくて録画だけど。)そうしたら、NTVがこの報道規制について、自局のスタッフにどう思うかをインタビューした特集の映像が流れた。NTV局内を回って、次々とスタッフにインタビューしていった特集。


「正直、国に裏切られた気分になった。我々はプロの報道者だ。我々が何を報道するかということは国には信頼してまかせてもらいたい。だいたいが、外ではケニア人が死んでいるんだ。それをナマで報道できないというのはどういうことだ。言論の自由が侵害されている。ケニア人には、ケニアで起こっていることを知る権利があるし、我々には知らせる責任がある」
「プロの報道者になるために学校に行って学んだが、その学んだことがすべてウソじゃないかと思わされてショックだった。学校では報道の意義と正義を学んだのだ。正義のために報道できなくて規制を受けて監視されるのであればなんのための報道なのか」


と、このような意見を次から次へと、あいまあいまに「これはナマではありません。録画です。」と何度もちゃちゃ入れているのがユーモラスで、明るくて前向きで、そして辛口に言いたいことを言っていて、とても良いインタビューだった。報道規制が出てから瞬時に反応して、このインタビューを撮影して超特急で編集して流したのだろう。このわけのわからない状況に対して、せめてもの抵抗、というかんじ。若いスタッフもえらい人もインタビューに答えていた。


私はテレビ画面でそのインタビューを見ていて、感じたことがいろいろあった。理不尽なことが山のようにあるアフリカだけれども、ケニアにはこんなにフェアな考え方をしている人々もたくさんいる。そしてみんな当たり前のように、当然のように、平和を望んでいる。フットワーク軽いナイロビの新世代の若者たち、こうして最先端で仕事している人々の中には、部族主義という古い頭はない。違う部族の人間でも、一緒に仕事をして友達で仲間として一緒に生きている。当たり前のことだ。欲しいのは闘いのない平和な世の中だし、しあわせに笑いあって暮らせる世の中だし、誰も銃声を聞きたくない。こんなこと当たり前。当たり前のことを当たり前に言い続けなけりゃダメだ。


(ナマじゃなくて録画で)暴徒があばれて火をつけて街が炎上して警官が発砲して大騒ぎになっている映像も流れた。キスムは、車も建物も燃えて火の海になっているような映像だった。モンバサでも火が放たれていた。暴徒は怖い形相で暴れていた。国際ニュースでこういう映像ばっかりが何度も何度も流されると、ケニアはどんなに恐ろしい国かと世界の人々は思うだろう。実際に起こっていることだから伝えなければならないけれども、部分的にしか知らされない報道はほんとに怖い。それと、心理的に操作されて集団心理で闘いが膨張していくのもほんとに怖い。


この報道規制に関してのインタビューが流れたあとで、今日ケニアの各地で(日曜日の教会で)みんなが手を取り合って祈りあっている姿の映像が流れた。そして、我々は平和を作れると信じなければいけないと、発言している人がいた。平和は待っていてやってくるものではなくて、ひとりひとりが真剣に意識を持って平和を願って祈って念じて実践して作るものだ。人間は平和を作れると信じて前向きに進んでいく力が強いか、ネガティブな方向に流されて巻き込まれていく力が強いか、そのどっちかの勝負なんだ。と思った。ケニアのことだけじゃなくて、世界中みんな同じだ。


平和を祈るこころを、その意志を強く持って、この世に実現していくのが大事なんだ。祈ることしかできないときはほんとにもどかしいけれども、この、真剣に祈るということがほんとに大事なんだと思った。どれだけ強く念じることができるかが勝負なんじゃないか。理不尽なことに負けちゃいけない。とにかくみんな、無事でいてください。まだ次の動きがどう出るか、落ち着かない気持ちで待っているところですが、またお知らせしていきます。祈っててください。

(転載文終了)

*1:今回の選挙で敗れた野党最大派閥