離職は申し訳ないか

「留学させてもらって役所を辞めるなんて、申し訳ないと思わないの?」
留学後の進路の可能性について話をしていて、この手のコメントを聞くと、「ああ、またか」とちょっとうんざりしてしまう。
相手と自分の間の考え方の深い溝を感じて、曖昧な返事で済ませてしまうこともある(←いくない)。


ちなみに、別種のコメントとして、「30代後半になって独身ってイタクない?」とか「老後に一人で暮らすなんて淋しくない?」といった類のものがあるが、これは議論が発散するので今回は辞めておく(笑)。


アメリカに来て良かったことは、こういった日本社会のしがらみから(一時的に)解放されたことだ。その点では、楽になった。
とはいえ、たまにはこうした会話に巡り合うこともある。


私は、申し訳ないとは思わない。というか申し訳ないって誰にだ。会社にか。一般国民にか。会社が擬人化されている。
公務員、という立場は少し状況を複雑にするが、会社と個人との関係(より正確には雇用主と労働者の関係)は基本的に民間企業と大きくは変わらないと思っている。会社には、個人を辞めさせる権利があるのと同様に、個人は会社を辞める権利がある。お互い様だ。


せっかく育てた社員に辞められてしまう、というリスクは会社側が負っている。そうしたリスクを勘案した上で、会社側が社員を留学に出す判断をしたのであれば、それは個人がどうこう気を回すことではない。
私について言えば、留学した後辞める可能性もあり得ることは、官庁訪問当時から言っていることだ。別に何も言わずにいきなり辞めても良いと思うけど、そうした可能性を匂わせることで、会社側はリスクをより正確に見積もる材料は与えられていたことになる。留学前の挨拶回りでも、何人かの上司に「ちゃんと戻ってこいよ」と冗談交じりに言われた。


そうした制度的な観点とは別に、倫理的な観点で「申し訳ない」と感じるとすれば、それは個人の価値観だけれど「本当にそう?」と思ってしまうのも事実だ。会社がこれまで自分に何をしてくれたか、よく考えてみよう。

  • 「研修やOJTを通じて、自分をここまで育ててくれた。」

それは確かにそうだが、会社は親や保護者ではない。育ててくれたのは、会社の益になると、会社側がリターンを期待しているからだ。

  • 「今抜けるとチームの他のメンバーに迷惑がかかる。」

これは、制度的な問題とタイミングの問題。自分のあとの補充が来ないといった制度的な問題は、辞める辞めないにかかわらず、組織として改善していくべき(そして自分も改善に向けた努力をすべき)問題だ。いま抱えているプロジェクトについて、知見を蓄積した人材が抜けるのが痛いことは確かだが、そんな人事はしょっちゅうだ。

  • 「素晴らしい上司や同僚に恵まれた。」

それも正しいが、これはあくまで個人対個人の関係だ。世話になった上司に恩義を感じるから会社に残る、というのは、理屈が離れ技になっている。果たして上司と会社は同義か?自分は何のために働いている?


その一方で、平日も週末もなく、睡眠と食事以外のほぼ全ての時間を会社に注ぎ込んで、相当な労働力は提供してきている。もちろん計るべき価値はかけた時間ではないが、提供価値という点でも、会社によるこれまでの給料と投資に対しては十分返してきたという自負がある(それを数量で出せない時点で主観にしか過ぎないけれど)。


すぐに「国民の血税を…」というトーンになるのも、私は好きではない。確かに、役所は国民の信託を受けて税金で政策を執行しているが、税金の使い方に対する説明責任を問われたときに、離職した場合に留学費用を償還することが義務付けられた今、それ以上に非難されるいわれはないと思っている。


とはいえ、会社の用意した環境の素晴らしさを否定するつもりは毛頭ない。むしろ、アメリカに来て一層強く感じる。「○○省の自分」だからこそ出来たことがあまりに多くて、それが自分の能力だと勘違いすることの危うさは常に肝に銘じていたい。


ちなみに、日本人以外の反応として、今のところこの手のコメントを受けたことはない。「5年の留学費用償還期間が過ぎたら、晴れて(職業選択という意味で)自由の身になるのね!」といった反応が多い。


※最後に、誤解されるので言っておくと、辞めることを前提としている訳ではありません。常に選択肢をオープンにして、環境保全の道を考えたいと思っているだけです。環境保全のための媒体として、うちの役所のポテンシャルは日本の中では一番と思っています。