辛く楽しいお勉強

今日は経済のstudy groupのメンバー+αで寿司を食べに行った。人種構成はインド、パキスタンイラクアメリカ、日本…。こうして書くと微妙な世界地図だが、個人レベルでは国籍に関わらず親しくなれるのは、改めて、平和への小さくも強い力なのだと思う。


こちらに来て寿司を食べるのは実は初めて。いわゆる大衆寿司で、回転方式ではなくてバイキング方式になっているのが笑えた。ラマダンが始まっているイスラム教徒のメンバーには、日が落ちてようやくの食事だ。


しかし、授業を離れると相変わらず彼らの言っていることは半分も分からない。クラスで発言したりディスカッションしたりするのは、国際会議での経験が助けになっていることもあってまだましなのだけど(いや、言いたいことの半分も言えてないけど)、日常会話のほうが私には難しい。うーん、そもそも、雑談って日本では何を話してたっけ、なんて考えたりするに(この時点で既に雑談ではない)、私は自分で喋るより、「なぜ」「なぜ」と相手の話を掘り下げながらじっくり聞くのが好きなんだっけ。それじゃあ、今の半分も聞けてない状態じゃ続くわけないなぁなどと妙に納得。


その後、Conceptual Foundationという授業の予習をする。これは、いわゆる国際関係論基礎のようなもので、国際関係学専攻の学生の必修科目になっている。リアリズム、リベラリズムコンストラクティビズム(アイデアリズム)などといった理念体系をもとに国際関係の成り立ちと帰結を説明、分析、理解しようとするもので、毎週膨大な量のreadingが課され、それを基に、講師による講演+20人程度のグループに分かれてのdiscussionを行う。


最初こそ、難解で概念的な内容がまったくもって意味不明だった。読み物も古典で、例えばこんな感じ。
「To lay downe a mans Right to any thing, is to devest himselfe of the Liverty, of hindring another of the benefit of his own Right to the same.」
(単語の綴りは原典に従ったもので、打ち間違いではありません)
単語の意味を全て調べてもなお、文章の意味が理解できないというのは軽い絶望感がある。


しかし、辛抱強く読んでみると、いろいろおもしろい発見があったりする。例えば、リアリズムは、いわゆる"男性的"な権力闘争の図式で国家間の関係性を理解しようとするものかと最初は単純に考えていたが、国際社会のルールや規範がいかにEnglish-speakingの優位な国によって都合よく規定されているかということ、彼らはそれが自己の優位を正当化する道具となるがために規範への遵守を主張すること、劣位の国は規範を破ることでしか自国が置かれた不利な状況を変えられないが、それは彼らがimmoralだということではなく、こうした前提にある図式がそれを不可避にしていることなどを痛快に指摘している文献があったりして、新鮮だった。


昔は、高校の政経の授業や大学の論理学基礎の授業など、まったく興味が持てずにかけらも記憶に残っていないが、それを今になって多少なりとおもしろいと感じられるのは、働き出して社会の動きを実感として感じられるようになったことと、最初の「難しくておもしろくない」の壁を越えさせてくれるだけの外的圧力(読まないと授業に参加できない)があるからだろう。こうした経験と環境に感謝。


改めて、学ぶのは楽しいと思う。丁寧にやっておもしろくない仕事がないように、丁寧にやっておもしろくない勉強はないのだろう。「勉強っておもしろい!」という体験を学生のうちに一度でいいからすると、その子のあとの人生は豊かになると思う。私にとってのそれは、物理の授業で「なぜ空は青いのか」「波は流れていない」というのを知ったときだった。分野はなんでもよくて、回数は強力なのが一回あればよいから、一人ひとりにそうした強い記憶が与えられれば、その義務教育は成功だと言っていいと思う。おもしろいと思えば、あとはその子が勝手に勉強する。